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名作を生みだし続けた巨匠。偉大なイタリア人女性作家2人

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はじめに

イタリアの作家と聞いて、みなさんはまず誰を思い浮かべますか?何人か思いつく人でも、女性作家の名前があげることができる人はとても少ないのではないかと思います。

実際、イタリアの女性作家の認知度は日本ではそこまで高くありません。今回の記事ではその女性作家たちに注目して、特に著名で、日本語でも読むことのできるおすすめの作家二人ナタリア・ギンズブルグエルサ・モランテ、そしてその代表作を紹介してみたいと思います。

ナタリア・ギンズブルグ

日本で最も知られているイタリアの女性作家といえば彼女、ナタリア・ギンズブルグではないでしょうか?特にエッセイストの須賀敦子さんの翻訳や紹介を通して日本では有名になりました。彼女の経歴を少し追ってみましょう。

経歴

出生ー作家業のはじまり

ナタリア・ギンズブルグ(ナタリア・レーヴィ)は1916年にシチリアのパレルモで、トリエステ出身のユダヤ系イタリア人で医学部教授のジュゼッペ・レーヴィとミラノ出身のリディアの間に、5人の末っ子として生まれました。

一家には知識人が多かったといいます。彼女が3歳の時には家族でトリノに移住しました。1933年、ギンズブルグが19歳のときに書いた短編が文芸誌「ソラリア」に掲載されたことで、彼女は作家としての道を歩みはじめます。

ギンズブルグとの結婚ー第二次世界大戦

1938年に反ファシストのレオーネ・ギンズブルクと結婚し、彼女はこの夫のギンズブルクという姓で以後ずっと小説を出しました。レオーネ・ギンズブルグはジュリオ・エイナウディとともにトリノの出版社エイナウディ社を創設したメンバーの一人であり、夫を通して彼女も様々な知識人と知り合っていきました。

しかし人種法の制定によってユダヤ系だったギンズブルグたちは迫害を受けるようになり、1940年には長男が誕生しましたが、反ファシズムグループのリーダー格であったレオーネが流刑に処され、ギンズブルグ一家は南イタリアのピッツォリという流刑地で生活します。

そしてそのなかで1941年には『わが夫』を、1942年には『町へゆく道』を偽名で刊行しました(1945年に本名で再販)。しかし夫は1944年に拷問の末、獄死してしまいます。

戦後ーイタリアを代表する作家へ

戦後、ギンズブルグはエイナウディ社に迎え入れられ、編集者としても働き始めます。そして戦後は、短編から長編までたくさんの小説を手掛け、『ヴァレンティーノ』でヴィアレッジョ賞を、『ある家族の会話』でストレーガ賞を受賞し、20世紀を代表するイタリアの小説家のひとりとなりました。

他の代表作に『マンゾーニ家の人々』『モンテ・フェルモの丘の家』などがあり、多くの作品を日本語で読むことができます。

『ある家族の会話』(原題:Lessico famigliare, Einaudi, 1963)須賀敦子訳、白水社、1985年

1963年にイタリアで出版された『ある家族の会話』はナタリア・ギンズブルグを一躍有名にした代表作です。この物語はナタリア自身の家族の歴史が、1920年代から50年代までのイタリアの苦難の歴史と交差しながら織りなされていく物語です。

ファシズムと戦争のまっただ中でナタリアの家族、夫、友人たちは時代に翻弄されながらも、熾烈な日々を乗り越えて生きた軌跡がまさにそこには紡がれています。ファシズム政権下の中で獄死した夫のレオーネ・ギンズブルクや、作家のチェーザレ・パヴェーゼ、イタリアのタイプライターの会社オリヴェッティ社を大きく成長させたアドリアーノ・オリヴェッティなど、数多くの著名人も登場します。

ぜひ須賀敦子さんの『トリエステの坂道』『霧の向こうに住みたい』などのエッセイと合わせて読んでみるのもお勧めです。

エルサ・モランテ 

エルサ・モランテはローマ出身の女性作家で、イタリアの作家アルベルト・モラヴィアの一番目の妻でもありました。イタリアではナタリア・ギンズブルクと並んで最も人気のある女性作家の一人といえます。彼女の経歴についても、追いかけてみましょう。

経歴

幼少期

彼女は1912年にローマで生まれ、「作家になりたいという思いは、いわば私自身とともに生まれた」と彼女自身が言っているほど、創作を愛し、幼いころから童話や詩などを作っていたそうです。

作家活動のはじまり

1933年頃から雑誌に童話や詩、短編などを発表しはじめ、1941年には最初の短編集『秘密の遊び』を出版しました。1937年には画家のジュゼッペ・カポグロッシを通じてモラヴィアと知り合っており、この時、詩人のウンベルト・サバやピエル・パオロ・パゾリーニとも出会いました。

結婚と逃亡生活

モラヴィアとは翌年に交際をはじめ41年に結婚しています。哲学者ジョルジョ・アガンベンとも親交がありました。戦中には夫モラヴィアの名前が逮捕者名簿の中にあることを知らされて、夫婦で逃亡生活を送り、連合軍の北上にしたがって爆撃を身近に感じることもありました。

戦後

戦後には初の長編小説である『嘘と魔法』が出版されました。(残念ながら邦訳はまだありません)他の代表作は『イーダの長い夜-ラ・ストーリア』(La storia, 1974)であり、他にも『禁じられた恋の島』というタイトルで映画化された『アルトゥーロの島』(L’isola di Arturo, 1957)や短編集『アンダルシアの肩掛け』(Lo scialle andaluso, 1963)などを日本語訳で読むことができます。

『イーダの長い夜-ラ・ストーリア』(La storia, Einaudi, 1974)千種堅訳、集英社、1983年

『イーダの長い夜』は原題を『La storia/歴史』といい、「歴史」とも「物語」とも訳すことのできるこの言葉は、もっともここでは作者の意図や構成からいって「歴史」と捉えるのが自然なのですが、童話的な要素を盛り込んだ第二次世界大戦を生きた民衆の「物語」とも言えるかもしれません。

友人の画家ビル・モロウの自殺や夫モラヴィアとの離婚など、モランテにとって苦難の60年代を越えて、モランテは71年に長編の執筆にとりかかり、74年に『歴史』として出版しました。

作品の舞台はローマで、第二次世界大戦の熾烈な環境のもと、女手ひとりで子供たちを育てる母親イーダの物語でもあり、民衆の物語でもあり、そしてモランテの戦争の記録でもあります。

この作品はイタリアの文壇からはさまざまな批判をあび、マスコミを騒がせるほどの論議の的となりながらも、幅広い読者を獲得し大ベストセラー小説となりました。かなりの長編ではありますが、平易な文章で一般読者向けに書かれているため、とても読みやすいと思います。

さいごに

河出書房の世界文学全集にナタリア・ギンズブルグとエルサ・モランテの作品が収録されるにあたって、須賀敦子さんが二人のことをこのように評価しています。

(…)現代イタリアの女性作家、というと、通常このふたりの名がまずあげられる。それぞれにファシズム期イタリアの闇の時代をくぐり抜け、創作においてはどちらも独自の方法で「記憶」にこだわった。しかし、作り上げた世界も表現方法も両者は互いに非常に異なっている。たとえば、モランテの豊かな修辞に対するギンズブルグの禁欲的なまでに簡素な表現、あるいはモランテが感情のマグマを動くがままに、ときには極度に突きつめた形で読者の前に呈するとすれば、ギンズブルグは感情の荒波が去ってよどみが底に落ち着いたあとの余韻を描く、というように。(…)

同時期を生き、そして別々の仕方で戦争の記憶と向き合った二人の女性作家。

実は、モランテが最初の長編『嘘と魔法』をエイナウディ社から出版できたのはギンズブルグの仲立ちがあったからだといい、またモランテの『歴史』が出版されたときにはギンズブルグが一番に賛辞を送っていました。彼女たちの生き様、そしてその作品が気になった方は、ぜひ本を手に取ってみてはいかがでしょうか。

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  • この記事を書いた人

編集者N

大学でイタリア文学を専攻。特に現代イタリア文学を中心に研究を行っていく予定。好きな街はヴェネツィア。

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