「死にゆく町」の由来とは?チヴィタ・ディ・バニョレージョの歴史・今日を徹底解説

 2017/09/09

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「死にゆく町」にはどんな歴史が?

イタリア有数の秘境である、中部イタリアの小さな町「チヴィタ・ディ・バニョレージョ」。最近では「死にゆく町」「天空の城」という名前も徐々に知られはじめ、徐々に多くの観光客が訪れています。

そんなチヴィタには、どのような歴史があるのか、その辺りのことを丁寧に解説させていただきたいと思います。

死にゆく町の名前の由来

チヴィタ・ディ・バニョレージョは、なぜ「死にゆく町」と呼ばれるのでしょうか?それは現代のイタリア人作家である、ボナヴェントゥーラ・タッキ(Bonaventura Tecchi, 1896-1968)という人によって付けられたものです。彼はこの町のことを“la città che muore(死んだ町)”として形容し、それが後世まで遺されていったのです。

チヴィタの歴史

では、チヴィタ・ディ・バニョレージョの歴史について、古代から現代まで簡単に追いかけていくことにしましょう。

1.チヴィタの‶創世記”

エトルリア人の壁画(イメージ画像)

さて、チヴィタの歴史はいつ頃から始まったのでしょうか?

実はチヴィタ自体の歴史は、ローマよりも古いとされ、2500年以上前に中部イタリアに住む民族であるエトルリア人によって作られました。チヴィタにある道もその頃作られたもので、現存する最古の道の一つとされているほどです。

火山噴火による凝灰岩でできた大地は、雨や風、川の侵食などの影響を受けやすいため、エトルリア時代から古代ローマ時代にかけて、自然の城壁を利用する目的で丘の上に町が作られ、チヴィタもそのひとつだったのです。

チヴィタの町の入り口は、5つの門から構成されていましたが、今日ではサンタ・マリア門というのが最も主要なものとなっています。もともとはチヴィタの奥に見える谷から、トンネルでチヴィタまで繋がっていたんだとか。これらの道はもともとはエトルリア人が作りました。

2.ローマ人が住んだ時代

エトルリア人が去った後はローマ人が住み始めることに。ちなみに先ほどエトルリア人が作ったと書いた道も、その後はローマの幹線道路に活用されていきます。

また古代の時代から非常に地震活動は活発だったために様々なものが改修工事などがされ続けています。

そのため、常に地震に負けないような、川を引く用水路や雨水のための水道などを作ることが生きる上で求められ、用水路技術が非常に発達していたといわれています。

3.中世ールネサンス時代

前述の通り、地震だけでなく浸食、さらには隆起などの影響で町は常に難しい状況にさらされることに。町の崩壊は町ができたときから続いてきました。さらに1287年から5回の地震に見舞われます。

それでも、町並み自体はまさにイタリアの中世都市そのもので、実際にルネサンス期に建設された様式が今日まで残っています。

【次ページ】近代から今日のチヴィタ、チヴィタの崩壊を防ぐ努力

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