会津若松にはポンペイ遺跡の柱がある!?
会津若松と言えば、幕末史においては有名な地名のうちの一つで、聞いたことのある人も少なくないでしょう。
実はこの会津若松には、ポンペイ遺跡で発見された古代神殿の柱があります。
一見何の関係もなさそうに思えるイタリアと会津ですが、一体なぜなのでしょうか。
柱はあの悲劇の場所に
このポンペイ遺跡の柱は、会津若松市の東部にある飯盛山にあります。
この飯盛山は、白虎隊自刃の地として知られ、彼らの霊魂を祀る墓地が整備されています。
幕末、旧幕府軍の兵士として戦闘に赴き、悲劇の最期を迎えて眠る彼らの傍らに、この柱がたたずんでいるのです。
なぜここにポンペイの柱が?
ポンペイ遺跡の柱が寄贈されたのは1928年、贈り主はあのベニート・ムッソリーニです。
彼は「白虎隊の精神に感銘を受けた」として、当時の若松市にこれを寄贈しました。
柱の上部では、ローマ軍の象徴である青銅の鷲が翼を広げています。
柱の前面には『文明の母なるローマは白虎隊士勇士の遺烈に不屈の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリを飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る。』と刻まれ、裏面には『武士道の精華に捧ぐ、ローマ元老院と市民より』と刻まれています。
寄贈当時、ファスケス(古代ローマの権威を表す、斧を複数の棒で束ねたもの)が4本ありました。
しかし第二次世界大戦後、GHQによってそれらは持ち去られ、碑文も削り取られてしまったそうです。
碑文については昭和60年に、飯盛山の墓守であった飯山フミ氏によって復元されました。
ちなみにドイツも同じように碑を寄贈しています。
ドイツ大使館付武官ハッソー・フォン・エッツドルフ大佐も、白虎隊の精神を賛美し、1935年に碑を寄贈しました。
当時の枢軸国にとっては、主君に命を捧げる姿勢を国民が持つことが重要であり、白虎隊を賛美したのでしょう。
時代と国を超えて
時代背景を鑑みれば、この寄贈は決して正しいことではなかったのかもしれません。
ですが、日本とイタリアの意外な接点の一つとして、注目すべき点であるとは思います。
時代と国家を超越して、二つの場所がつながっていることにロマンを感じずにはいられません。
参考サイト:飯盛分店(会津飯盛山上)
飯盛山へのアクセス
JR会津若松駅より、まちなか周遊バス「ハイカラさん」「あかべぇ」に乗り「飯盛山下」バス停で下車。
ホームページ:飯盛分店(会津飯盛山上)