ルネサンスの巨匠 レオナルド・ダ・ヴィンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci、1452-1519) は、ルネサンス期イタリアを代表する万能の天才画家。『最後の晩餐』、『モナ・リザ』などの精巧な絵画で知られるルネサンス期イタリアの巨匠。
絵画のみならず、彫刻、建築、土木、科学、数学、工学、天文学など種々の技術に通じ、極めて広い分野に足跡を残した万能の天才。
世界各地に散らばる彼の傑作ですが、イタリアにはどのような絵画が遺され、どこで見ることができるのでしょうか。解説とともにまとめてみました。
イタリアで会えるレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画
1.最後の晩餐(サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ教会)
レオナルド・ダ・ヴィンチの最高傑作の呼び声も高い『最後の晩餐』。
ダ・ヴィンチが生涯に手がけた壁画のうち、現存する最も代表的な作品であり、私たちもモナ・リザに次いでよく知っている絵画かもしれません。
主題
当時のミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼により、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会の食堂の装飾画として制作されました。
この作品は、キリスト教美術において比較的古くから用いられている『最後の晩餐』を描いたものですが、通常示されることの多い宗教的な教義である「聖体拝受(主によるパンと酒杯の拝受)」を描いたものではありません。
それは、イエスが十二人の使徒に対し『この中に私を裏切るものがいる』と、裏切り者を指摘する、登場人物の複雑な心理描写に重点が置かれています。
解説
この絵画は、新約聖書「ヨハネによる福音書・13章」にある「イエスの愛しておられた弟子」という記述に基づいているとされています。(以下引用)
「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。 シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それはだれのことですか』と言うと、 イエスは『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。
それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。」
謎多き絵画
この『最後の晩餐』は、ダ・ヴィンチの作品の中でも特に謎多き作品として知られています。
「イエスの左に座っているのは、公式見解では使徒ペテロであるが、実はマグダラのマリアである」という説や、「彼ら2人が作る奇妙な空間は三角形となっており、これが聖杯を表している」などなど。挙げればキリがないほどです。
これらの謎を詰め込んだのが、ダン・ブラウン作「ダ・ヴィンチ・コード」と言えるでしょう。フィクションでありながら、その論理は整然としており、私たちの謎への期待をさらに膨らませるばかりです。
絵画の修復
本作は、壁画で通常用いられるフレスコは使用されず、油彩とテンペラによって描かれているため、完成後すぐに色あせていくこととなります。
また、食堂がその後馬小屋として使用されたことや、湿気に晒されたこと、第二次大戦での建物全壊などが重なり、今日では原型のまま鑑賞することはできないと言われてきました。
ですが、近年(1977~99年)この絵画の大幅修復が行われ、非常に色鮮やかに美しい姿で私たちの目の前に再び現れました。そして1980年、ダヴィンチ「最後の晩餐」を所蔵する教会とともにユネスコの世界遺産 (文化遺産) 登録されました。
2.受胎告知(ウフィツィ美術館)
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品の中でも初期の作品である『受胎告知』は、ウフィツィ美術館に所蔵されています。
独立していたレオナルドが、画家の師である彫刻家ヴェロッキオの工房で活動していた時期に手掛けられたと推測されており、明確な記録はないものの、真筆(本物)として認められています。
『受胎告知』は、神の子イエスを宿す聖なる器として父なる神より選定され、聖胎(神の子を妊娠)したことを告げる、神の使者大天使ガブリエル(左)と、それを厳かに受ける聖母マリア(右)が出会う場面です。
祝福のポーズと共にマリアへキリストの受胎を告げる、ガブリエル。穏やかな表情を見せる聖母マリア。非常に写実的(見たものをそのまま描いた様)に描写される風景や石面、遠近法を用いた表現など、若きレオナルドの才能を読み取ることができます。
また聖母マリア(右)の右腕が異常に長いことが知られています。それは、「この作品を聖母マリア側(右側)から鑑賞することを前提としている」という説が唱えられています。
さらに遠景の最も高い山は『山の中の山』としての、主イエスの象徴であるとの解釈も行われているのだとか。
パリのルーヴル美術館には、かつてダ・ヴィンチの作とされていたものの、現在ではレオナルドと同様ヴェロッキオの工房で学んでいたロレンツォ・ディ・クレディの作とされる『受胎告知』が所蔵されています。
また、この作品の主題である『受胎告知』は、中世期~ゴシック期に非常に多く描かれてきた宗教主題の一つでした。
3.アンギアーリの闘い(ウフィツィ美術館・ヴェッキオ宮殿?)
『アンギアーリの戦い』は、フィレンツェの旧フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)大会議室に、レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた「幻の」壁画のことを指しています。
かなりいわくつきの絵画で、私たちはウフィツィ美術館などでその模写しか見ることができませんが、今も現存しているのではないか、と多くの研究者から推定されています。
主題
アンギアーリの戦いは、15世紀半ばのイタリア、トスカーナ地方(フィレンツェが属する地方)のアンギアーリにおいて、フィレンツェ共和国軍とミラノ公国軍の間で行われた戦いのことです。1440年、アンギアーリにある橋を巡って争われ、フィレンツェ軍が勝利しました。
解説①ー絵画の歴史
その中心部分はフランス・パリのルーヴル美術館にあるピーテル・パウル・ルーベンスの模写によって広く知られています。
1504年、レオナルドはフィレンツェ共和国からの依頼を受け、ヴェッキオ宮殿(共和国の政庁舎)の大会議室「500人大広間」に『アンギアーリの戦い』を描き始めました。
ダ・ヴィンチは、『アンギアーリの戦い』で軍旗を激しく奪い合う兵士たちや、軍馬の衝突を素晴らしく写実的に描きました。
『アンギアーリの戦い』はダ・ヴィンチ最大の大作であり、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に描いた『最後の晩餐』の苦い経験から、油絵で壁画に挑戦しました。
ダ・ヴィンチは、様々に試行錯誤しましたが、途中でミスを犯して表面の絵の具が流れ落ちてしまい、急いで乾かしたものの絵画の下半分しか救うことができませんでした。
その結果、上部は色が混じり合ってしまい、ダ・ヴィンチはこの壁画を諦めざるを得なくなりました。
ダ・ヴィンチの『アンギアーリの戦い』はその中心部分の素晴らしさを賞賛され、その後数十年は多くの画家によって模倣されていきます。
その後、大広間はメディチ家領主コジモ1世の宮廷のために改築、拡張されたため、この際にダ・ヴィンチの未完の壁画は壁ごと失われたと考えられてきました。
解説ー論争
イタリアのある美術史家は、1563年にヴァザーリによって五百人大広間に描かれたフレスコの壁画『マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い』の一つの裏にダ・ヴィンチの『アンギアーリの戦い』が隠されている、と主張しています。
ヴァザーリのフレスコ画の12m地点、フィレンツェ兵士が掲げている緑色の軍旗のところに、"Cerca trova"(「探せ、さすれば見つかる」)というヴァザーリの文字が記されており、これがヒントだと彼は主張しました。
そこで、五百人大広間を隈なくレーダーやX線による調査を行ったところ、ダ・ヴィンチの『アンギアーリの戦い』があったと思われる壁面は、ヴァザーリによってもう一つ壁が作られた二重壁になっていたことが分かりました。つまり、ヴァザーリはアンギアーリの闘いを保護するように一枚壁を貼り、その上に絵を描いたというのです。
調査の結果、2011年、壁の内側にもう一つの壁を発見し、そこからダ・ヴィンチの絵と思しき顔料が確認されました。ですがその後、なかなか調査が進まず、結局は「レオナルドの遺した謎は、謎で終わる」とし、調査が打ち切られてしまうこととなります。
4.東方三博士の礼拝(ウフィツィ美術館)
彼の未完の傑作『東方三博士の礼拝』も、ウフィツィ美術館に保存されています。本作はフィレンツェ郊外サン・ドナート・ア・スコペート修道院の注文により同修道院の中央祭壇画として制作された作品です。
主題
この絵の主題は、イエスの生誕を祝う姿です。
未来のユダヤの王たる神の子、イエスの降誕を告げる新星を発見した東方の三人の王(博士)が、エルサレムでヘロデ王にその出生地を聞いた後、星に導かれベツレヘムの地で神の子イエスを礼拝します。
彼らはそれぞれ、王権への敬意を示す黄金、神性への敬意を象徴する乳香、受難の予兆であるとされる没薬(当時、死体の保存に使われていた)を捧げる場面が描かれています。
背景
レオナルドが1482年にミラノへと向かったため、モノクロームの状態(未完状態)でフィレンツェに残されてしまったのがこの作品でした。
前景では画面中央に配される聖母マリアと幼子イエスを中心に、東方の三王や民衆たちが円状に囲みながら平伏すような姿で聖母子を礼拝しています。そこでは様々な人物において性格付けや行動的人間性が示されています。
さらに、主題の解釈においても、当時、問題視されることになった主の御公現(エピファニア。主イエスへの公式的礼拝)を意識させる内容が示されており、レオナルドのそれまでの伝統に捉われないという意図を感じられるでしょう。
修復作業も
また、現在ウフィツィ美術館に展示されているものは、修復作業を終えたものになっているようです。修復された方の絵は見たことが無いので、是非見てみたいですね。
絵画の修復を終えた後は、額縁のひびなどの修復に着手する予定で、作業チームは2015年末をめどにフィレンツェにあるウフィツィ美術館(Galleria degli Uffizi)に「東方三博士の礼拝」を展示したいとしている。
5.自画像(トリノ王立図書館)
トリノで保管されているダ・ヴィンチの自画像も、あまりにも有名です。向かって右斜め横を向いた老人の頭部が、紙に赤チョークで描かれています。
解説
長髪と波打つ長いひげが肩から胸まで垂れ下がっていますが、ルネサンス期の肖像画ではこのような髪とひげの表現は珍しいものとされています。
その顔貌はやや鷲鼻で、額から眉にかけての深いしわ、垂れた下まぶたが表現されているほか、小鼻から伸びた深いほうれい線のために、上前歯が抜け落ちているかのような印象も与えられます。前方に向けられた視線は鑑賞者の視線とは交差せず、長いまつげに縁どられた目は厳粛な雰囲気をたたえている。
また、このような向きになっているのは、ダヴィンチが左利きであったためだとされているのだとか。
保存状態
実はこの絵画、劣化が進んでいるため、常設での展示はされていません。
描かれている紙は長年の湿気のために茶色く変色しているだけでなく、紙という素材自体がもろくなってしまっています。このため、研究者たちは紙を傷つけることなくドローイングの状態を解析することに苦労しています。
また、このままでは永続的な保存は不可能になる可能性も出てきているようです。
「自画像じゃない」説
トリノで所蔵されているこの老人は、実はダヴィンチではない、という説も未だに残っています。
この肖像画ダヴィンチであると広まった背景には、ダヴィンチをモデルとして描かれたルネサンス期に活躍したラファエロの『アテナの学堂』にかかれたプラトンと肖像と風貌は酷似していたことや、ヴァリザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』にはダヴィンチの肖像として自画像と似た人物が描写されていたからです。
60歳としては老けこんでいるため、研究ではこの自画像はダヴィンチ本人ではなく80歳父のピエロか叔父のフランチェスコを描写したのではないかという説もあるようですが、明確な証拠はありません。
さいごに
いかがでしたか?フランスのルーヴル美術館などに多くの作品があるレオナルド・ダ・ヴィンチですが、イタリアにも彼の特徴的な傑作が多く遺されています。
彼の作品を巡る旅、是非してみたいものですね。
参考にしたページ
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