イタリアにもテロの時代があった。極左組織「赤い旅団」の恐怖に迫る。

イタリアにもテロの時代があった。極左組織「赤い旅団」の恐怖に迫る。

ゆうさん

学生時代にローマ・サピエンツァ大学に留学し、シチリア出身マンマが統べる大家族にてホームステイ。今は日系企業で国際提供業務に従事する社会人3年目。イタリアで仕事をする機会を細々と狙っています。サザンオールスターズとサンドウィッチマンが大好き。

以前書いた「イタリアでテロが起きていない5つの理由と、それでも安心できるはずがない理由」の記事の中で私は、イタリアにもテロの危機が迫りつつある、テロに対して油断することはできない、という旨の内容を書きました。

そしてその中ではお伝えすることができなかったのですが、実はイタリアは、第二次大戦後は、あるテロ組織によって国家や市民が恐怖に怯えた時代が存在します。

この記事では、イタリア全土を震え上がらせた「赤い旅団」と呼ばれるテロ組織について、その歴史や誕生背景、重大なテロ事件、現在のテロ活動について、お話ししていきたいと思います。

「赤い旅団」を丁寧に解説

「赤い旅団」とは

「赤い旅団」は、イタリアにおいて1970-80年代を中心に活動していたテロ組織です。イタリア語では、「ブリガーテ・ロッセ(Brigate rosse)」と呼びます。思想は極左の側に立ち、社会主義革命を実行すべく、放火、誘拐、殺人を含む数々のテロ活動を行いました。

思想

彼らの思想は、極左の立場をとったものでした。1960年代に世界各地で起きていた革命(文化大革命など、後述)の影響を受け、イタリアでも労働者による革命を起こすことを目指しました。また、イタリアの西欧同盟からの離脱も主張していたイデオロギーの一つです。

赤い旅団を時系列順に追いかける

1970年からの赤い旅団の活動は、主に3つの時代に分けることが通説のようです。ですがこの記事では、活動前後に対しても注目し、5つの時代に区切って、各時代におきた象徴的な事件などを追いかける形で、赤い旅団の実態の一部に迫ってみたいと思います。

1.1960年代

中国の文化大革命(http://business.nikkeibp.co.jpより)

誕生後の活動を見る前に、まずはそれ以前の時代背景を確認しておきましょう。1960年代は、社会主義の熱が高まった時代でした。それは、60年代が、中国の毛沢東による文化大革命やキューバのチェ・ゲバラとフィデル・カストロによるキューバ革命が起きた時代とも言い換えることができます。

そうした2つの革命と時を同じくして、イタリアでも社会主義思想や労働者闘争の潮流が高まっていきました。それは、政権与党がキリスト教社会党という社会主義政党だったことや、「経済の奇跡」と呼ばれた高度経済成長期を生んだイタリアにおいて、労働者が権利を主張する立場を得たことと主に関係しています。

「学生運動」と書かれた旗を持ち街を歩く学生たち(http://www.secoloditalia.itより)

そうして60年代末には、国内の工場や大学においてチルコロ(Circolo)と呼ばれる社会的なクラブが多く誕生し、それぞれが独自にもしくは協働してデモ活動等を行うようになりました。

若者や労働者は、世界各地での革命は、自分達の権利を守る革命だという一種の幻想を見ていたのかもしれません。

ミラノでの抗議デモ(1977年)において、学生が警察に向かって発砲する様子。(https://it.wikipedia.orgより)

彼らによる数千に及ぶ活動の中でも、赤い旅団の元となったのは、CPM(Collettivo Politico Metropolitano: 都市政治集団)と呼ばれる団体でした。その団体は、トレント大学の学生レナト・クルチョやマルゲリータ・カゴル、イタリア最大の電話・通信会社だったシーメンス・イタリア通信会社(SIT Siemens)の労働者、イタリア共産党の一部党員を中心として構成され、彼らが1970年に「赤い旅団」を結成しました。

2.1970-74年

赤い旅団の主要人物たち。左から順に、ピエトロ・モラッキ、マリオ・モレッティ、レナト・クルチョ、アルフレード・ボナヴィータ。

この時代は、Propaganda Armata(武装したプロパガンダ)と呼ばれる複数の誘拐によって世間の注目を集め始めた時代のことを指しています。

先述の通り、活動の主体者は学生と労働者で、彼らは各地の工場などで暴動やデモ活動を起こして労働組合に入り込んでいきます。当初彼らは、支持者を集める上で、「若年層の高い失業率」や「挙国一致体制」への不満を、支持者を集めるための材料としてしました。

しかし、急進的な手法に対し、想像以上に労働者からの支持を得ることに難航。そこから先は、徐々に過激な武力闘争に進んでいくことになります。

1972年には、赤い旅団で初めての誘拐事件を起こしました。相手は当時イタリア最大の電話・通信会社だったシーメンス・イタリア通信会社(SIT Siemens)の工場長。複数回の誘拐を通じて労働者の権利向上を訴える主張をイタリア全土に行いましたが、最終的に彼は解放されています。

同年には、団員による殺人未遂事件などがありましたが、これまでの活動ではいずれも死者を出すことはありませんでした。その流れを大きく動かしたのが74年のパドヴァでの暗殺事件だったのではないでしょうか。

イタリア社会運動・国民右翼(政党名、イタリア語:Movimento Sociale Italiano - Destra Nazionale)の党員であったグラツィアーノ・ジラルッチとジュゼッペ・マッツォーラの2人が、パドヴァで暗殺されたのです。

3.1974-80年

誘拐された検事マリオ・ソッシ(https://www.raiplayradio.itより)

この時代は、赤い旅団の活動の中でも、最も悪名高く恐怖的だとされる、国家の中枢部に対する数々のテロ行為が行われた時代のことを指しています。

74年、赤い旅団はジェノヴァで検事マリオ・ソッシを「Sossi fascista, sei il primo della lista!(ファシストのソッシ、お前はリストの一番上にいる!)」というスローガンのもと誘拐し、その時逮捕されていた団員の解放を要求しました。

ジェノヴァ裁判所は団員解放を認める直前まで行ったものの、検事フランチェスコ・ココが「我々はいかなるゆすりにも屈しない」との声明を出したことで状況は急転、ソッシは殺害されることとなったのです。

解放に異議を唱え、後に殺害されたココ(http://www.associazionemagistrati.itより)

これは、赤い旅団が国家(検事という国家権力への従事者)を標的として行った最初の活動とされており、「この行為は、最初の国家に対する作戦であり、我々の活動が始まったのだ」と宣言されました。

ちなみに、先ほど解放を拒否した検事ココも、76年に赤い旅団によって暗殺されます。

これ以降、大手メディアの記者を対象とした誘拐・殺害や、刑務所への襲撃など、活動は激化の一途を辿ることに。そして、イタリアのみならず、世界を最も震撼させたのが、1978年の「アルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件」でした。アルド・モーロ元首相は、政権時、「開かれた政府」を主導すると同時に、共産主義者に対しては厳しい姿勢を崩しませんでした。

 

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元首相という、国家の中でも最重要人物の一人が誘拐され、殺害されてしまったということへの衝撃はあまりにも大きいものでした。何よりも首相が車の中で遺体となって発見された写真は、最もショッキングだったと言えるでしょう。

殺害されたアルド・モーロ元首相

4.1981-88年

この時代は、警察の取り締まりや労働闘争の停滞などにより、赤い旅団の活動が沈静化していく停滞期を指しています。

良くも悪くも、赤い旅団にとっては、1978年が絶頂期でした。つまりそれ以降は活動に陰りが見えることに。それは、警察の取締りや労働闘争の沈静化による面もありますが、あまりも激化する活動に対して疑問を感じていた党員たちによる改悛や裏切りが横行したことも大きかったようです。

それにより、テロ組織「赤い旅団」の全容が明らかになり、これまでのように活動を行うことは不可能になっていきました。

その後

今に繋がる「その後」の項は、分けて考えたいと思い、一段上の見出しをつけています。

1988年以降は、赤い旅団団員を名乗るテロリストによって3件の殺人事件が起きているものの、団体全体としての活動は全くなくなり、イタリア社会においても赤い旅団は完全に過去のものとされています。

パドヴァでの誘拐・殺人事件に対する追悼プレートに、共産主義のシンボルが。

ですが2015年には、1974年に殺人事件が起きたパドヴァの広場において、共産主義を表す鎌と槌がスプレーによって描かれているのが発見されるニュースが。しかも、2人の追悼プレートの上に堂々と描かれているのが、とてもタチが悪い。

このニュースからも分かることですが、例え赤い旅団という極左テロ「組織」が無くなったとしても、極左やテロを標榜する「個人」は決して無くならないということです。過激派組織ISILの活動においても、組織自体が壊滅的な被害を受けた後でも、ISILを名乗る個人によっていくつかのテロ行為が世界各国で起こりました。

シルヴィア・ジラルッチ(http://moscovita.it/より)

また、2011年には、先述した赤い旅団による初の被害者であるグラツィアーノ・ジラルッチの娘・シルヴィアが『L' inferno sono gli altri』を出版。赤い旅団の最初の犠牲者となった父をしのぶとともに、赤い旅団のようなテロ組織が、現代のイタリアにおいてすっかり忘れ去られている現状に危機感を抱いています(詳細はこちら)。

この活動をどう総括すべきか

イタリアを震撼させた赤い旅団のテロ活動を、どのように総括すべきは難しい問題です。組織の構成員がみな若かったこと、そして創設時からの中心人物であったレナト・クルチョやアルベルト・フランチェスキーニが1974-76年に逮捕されてしまったことで、最大の事件であるアルド・モーロ元首相殺害時には、組織全体の統率が取れていたとは言い難いのではないでしょうか。

つまり、本来持っていた共産主義的革命や労働者の躍進というイデオロギーは徐々に消え、ただのテロ組織になってしまったとも言えます。私個人としては、団員たち自身も、自分達が「何を」実現するために「どこに」向かっていたのか、分からなくなっていたと考えています。

1977年のトリノ(https://www.futura.newsより)

今後、共産主義が流行るようになったり、テロが横行したり、労働者闘争が始まったりなどの、そうしたことがまた起きるかは、分かりません。ただ、赤い旅団のように、主体も目的も忘れられたような活動が、民衆の手によって盛り上げられてしまい、それがテロや殺人などの越えてはいけないラインを越えてしまうこと自体は、きっと現代の私たちでも、覚えておかなければならないように思います。

さいごに

赤い旅団という組織について追いかけながら、イタリアにおけるテロの存在や、類似の団体の将来について考えてみました。いかがだったでしょうか。未熟な考えをこうしてサイトとして発信するのは、少々気が引けましたが、今後さらに赤い旅団やイタリアの戦後史を学び続けていきたいと考えています。

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