【映画 ネタバレ・感想 】『LORO 欲望のイタリア』この国は、誰のものなのか

ソレンティーノ監督自らが、「これまでも一貫して扱ってきたテーマ」と語る、「中年の人々の間の恐怖である、老いと死」という題材は、ベルルスコーニの尽きることのない空虚な欲への渇望と、否定することのできない老いへの歩み、が対比されることで、より一層際立っています。

ベルルスコーニの内面を描く

以前の「【11/15公開】『LORO 欲望のイタリア』ソレンティーノ監督が描く狂乱のベルルスコーニ」にて紹介した映画『LORO 欲望のイタリア』。2018年、イタリアで公開されたこの映画は、ダヴィデ・ディ・ドナテッロ賞やナストロ・アルジェント賞など、イタリアでも最も重要な映画賞にノミネートされ、複数の賞を受賞しました。

これまでも独特な世界観と圧倒的な映像美でイタリアを代表する映画監督にまで上り詰めたパオロ・ソレンティーノの監督作品であること、そして誰もが知るシルヴィオ・ベルルスコーニを題材として扱ったことなどから、イタリア国内でも多くの話題を呼び、日本でも11月15日公開されました。

この記事では、映画のレビューをしていこうと思います。書いていたら、いつの間にかかなり長くなってしまったので、前編と後編に分けさせていただきました。

この映画を観る前に

映画概要

(予告編)

原題

Loro(日本語直訳:彼ら)

公開年

イタリアは2018年、日本は2019年11月15日 Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国

ジャンル

コメディ、ドラマ

監督

パオロ・ソレンティーノ

キャスト

トニ・セルヴィッロ、リッカルド・スカマルチョ、エレナ・ソフィア・リッチ

あらすじについては、以前の記事を参照ください。

キャスト

©2018 INDIGO FILM PATHÉ FILMS FRANCE 2 CINÉMA

稀代の男を演じるのは、トニ・セルヴィッロ。ソレンティーノ監督は、彼の長編デビュー作『L’uomo in più』(2001)から彼を主役にし、『イル・ディーヴォ 魔王と呼ばれた男』(08)でも主役として抜擢して大成功を収めました。

©2018 INDIGO FILM PATHÉ FILMS FRANCE 2 CINÉMA

誰もが知る政治家を演じるのは非常に難しかったのではないかと想像できます。映画の前半で中心人物となる実業家・セルジョを演じたのは、リッカルド・スカマルチョ。『輝ける青春』でデビューした彼は、野心に溢れ、自由奔放に生きる人物によく合っています。

物語の中でミステリアスな立ち位置を取りながらも、最終的には老いの恐怖に苛まれる美女、キーラは、カシア・スムトゥニアクが演じました。ポーランド人の彼女は、イタリア語以外にもロシア語や英語が堪能で、様々な映画に出演していますが、最近だとパオロ・ジェノヴェーゼ監督の『おとなの事情』(16)でしょうか。

『LORO 欲望のイタリア』の感想

パオロ・ソレンティーノ監督ならではの映像美。PVをYouTubeで観ただけでは決して伝わらない、甘美でゴージャスな映像の数々。

この映画は、個人的にはあまり自分を没入できる感じの映画ではありませんでした。だって自分からはあまりにも遠い存在にある世界の話をしているようだったから。この作品で描かれた非現実的とまでも思えるパーティーの描写や、ベルルスコーニの保有する別荘に広がる景色、そして彼が見てきた世界は、自分の普段の生活からはあまりにもかけ離れている。

もちろん、映画の中で、一個人の内面が深く描かれた場面はそれほど多くないため、誰に感情移入していいか分かりづらい映画である、という点については、その通りだと思いました。

シルヴィオ・ベルルスコーニの「内面」

政権に返り咲くベルルスコーニ ©2018 INDIGO FILM PATHÉ FILMS FRANCE 2 CINÉMA

ベルルスコーニの内面に迫りたい、という強い気持ちに駆られた、と話すのは、監督のソレンティーノ。この映画では、2006-10年にかけて、ベルルスコーニが因縁の政敵プローディに敗れたところから、あらゆる手段を使って政権に返り咲くまでの様子を描いています。

だからこそ、この映画ではその数年間に渡る政治的な動きやスキャンダルなどについてはほとんど語られることがなく、時系列の確認程度にそれぞれの出来事が登場してくる程度です。

妻・ヴェロニカ

妻・ヴェロニカ ©2018 INDIGO FILM PATHÉ FILMS FRANCE 2 CINÉMA

そして、彼の内面が垣間見えるのは、妻・ヴェロニカと一緒にいるシーンがほとんど。あらゆるプレゼントや歌、2人きりでの時間を通じて、なんとか彼女の気を引こうとするベルルスコーニ。しかし、そうすればするほど、ヴェロニカの気持ちは彼からは離れていく。

心が戻りかけたかと思えば、18歳のモデル、ノエミ・レティツィアとの“親密な関係”が世間を賑わし、さらに「ブンガブンガ」と呼ばれる乱交パーティーを主催していたことも発覚し、完全にヴェロニカの気持ちは失われてしまう。メディア王として、政治家として、全てを手に入れ、国民を意のままに操れるほどの力を得たベルルスコーニは、たった1人の妻さえ幸せにすることができない。

ボートに乗る2人 ©2018 INDIGO FILM PATHÉ FILMS FRANCE 2 CINÉMA

彼の真の愛と空虚な愛が入り混じり、ベルルスコーニの1人の人間としての無力さが描かれます。全てを手にしたはずなのに、無力で、孤独に、老いていく。ヴェロニカとの関係性こそが、この映画のベルルスコーニ像を象徴しています。

ちなみに、ソレンティーノ監督は、インタビューの中で、既に終わった存在であるベルルスコーニを、今描くことに意味がある、と述べています。

ある時、スーザン・ソンタクが、「みんなが興味を失ったアイディアに私は興奮する」と語る啓発的な記事を読み、まさにこれだと思ったんです。もう権力もなく、スポットライトも浴びていない、すでに幕が閉じているベルルスコーニこそ、今やるべきと思い、すぐ動きだしました。」

女優の卵・ステッラ

大学生で女優の卵・ステッラ ©2018 INDIGO FILM PATHÉ FILMS FRANCE 2 CINÉMA

一方、それ以外に印象的だったのは、間違いなく、女優の卵・ステッラとのシーン。最初のパーティーの時から、イマイチ場の雰囲気に馴染めていない彼女に対して、ベルルスコーニは、ベッドの上でステッラに優しい言葉をかけ、権力をちらつかせながら、自分との”関係”を暗に迫ります。

しかしステッラは「あなたの口からは、いい匂いでも悪い臭いでもない、老人のにおい、私の祖父と同じ老人のにおいがする。」という言葉を残して、彼との”関係”を拒み、ヴィラを後にします。

のちにベルルスコーニは、自分が彼女の祖父と同じ入れ歯洗浄剤を使っているという事実に気づき、どんなに髪を整え、顔を変え、服を着飾り、売春婦をはべらせても、自分が「老い」という概念からは決して逃れることができないということを突き付けられます。

ステッラからその言葉を伝えられた瞬間、そして側近にそのことを話すベルルスコーニは、恐ろしいまでの哀愁と悲愴に満ちています。表情豊かなわけではないのに、そうした感情が伝わってくる。まさにトニ・セルヴィッロの演技の真骨頂だったと思います。

羊で始まり、キリストで終わる

ソレンティーノ監督ならではの映像美は、非常に好きです。実業家セルジョが、サルデーニャ島のヴィラを貸し切り、ドラッグに乱交にとなんでもありのパーティー三昧。映画のPVなどにもメインで使われているとだけあって、その映像は映画館で見ると素晴らしい迫力がありました。水中やプールサイドの人びとの魅せ方なんかも好きでした。

しかし同時に、黙示録的なオープニングとエンディングも見逃せません。特にオープニングなんかは、このシーン必要なのかな、と思うほど、映画の内容そのものとは関係ないのですが、むしろその違和感が、ソレンティーノ監督が何かを示そうとしているように思えてしまうのです。

羊とキリスト像といえば、新約聖書に登場する「迷える羊」。

ひとたび羊飼いのそばを離れてしまえば、自分を守る術も持たない、弱い羊は、やはり羊飼いのそばにいて保護を受けることが必要なのです。これは迷える世界における人間そのものであり、つまりキリストや彼の伝える神の啓示によって、私たちは初めて迷わずに生きていくことができる、という意味。

冒頭に登場する羊は、イタリア国民そのものなのです。混沌とした国で生きるLORO=彼らは、自分に強烈な冷房が当たっていることに気づかず、そのまま死んでしまった羊と同じで、自分たちがどんな状況にいるのかも分からないまま、気付いた時には絶望や苦難の淵に立たされてしまう、そんなことを表しているように思います。

翻って、キリスト(教)はどうでしょうか。崩落した教会から傷だらけの状態で取り出されたキリスト像(詳しくは、後編の記事で紹介しています)。彼もまた死んだのではないでしょうか。まだ生きているかもしれませんが、瀕死の状態です。

つまり、現代の羊たち(=イタリア国民)には、導いてくれるキリストのような存在もない、ということを暗示しているのではないでしょうか。ベルルスコーニという、圧倒的な指導力と権力を持ち、国民に辟易されながらも、結局は国の代表としての立場を手にする、そんな人物も現代にはもういません。彼は、しきりにこの映画の中で、「終わった存在」として描かれています。

ソレンティーノ監督

 
 
 
 
 
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「LORO」の映画パンフレットの中で、ソレンティーノ監督は、ベルルスコーニがいない時代について、次のように述べています。

南には悪党たちが、そして北にはカルヴァン主義者たちがいる。すべてまとめて彼らはイタリア人です。しかし抱く恐怖はみんな異なる。辺鄙な場所に取り残される恐怖、家族を捨てざるを得ない恐怖、忘れ去られる恐怖。世界の倫理など誰も知らず、道徳観念がないのが当たり前になっていく国で、抜け道を探しスモールビジネスばかりで変化も乏しい時代、つまりベルルスコーニが登場する前の時代に戻ってしまう恐怖。いろいろです。

劇中、ベルルスコーニを支持した国民の活力は、後々避けられない失望にとって代わります。彼の親しみやすさは、ミステリーでもあり、痛みでもありました。

ソレンティーノ監督が「ベルルスコーニが登場する前の時代に戻ってしまう恐怖」という言葉で、現代のイタリアを表現したことは、非常に印象的です。

続きは後編へ

後編では、この映画のタイトルともなっている、「LORO」の意味について、考えてみたいと思います。

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  • この記事を書いた人

ゆうさん

『BUONO!ITALIA』代表をしています。 1年間ローマ大学に留学し、シチリア出身マンマが統べる大家族にてホームステイ。卒論では、『1980年代以降のイタリア中小企業論』について考えました。社会人1年目。サイトSNSはこちら↓より。

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