新型コロナウイルスが猛威を振るうイタリア。当サイトでもいくつかの記事で最新のデータや情報などをお伝えさせていただいております。私も毎日内容を追いかけているのですが、その中で一つ、どうしても気になる内容があります。
それは、イタリアでのコロナの蔓延の理由を、中国人移民に求める言説です。つまり、中国人移民のイタリア国内での移動が、イタリアでの新型コロナウイルスの拡大を広げてしまったというもの。確かに、最初にイタリアで感染が確認されたのは、中国人観光客でした。そして、中国人移民が非常に多い地域として、イタリア中部・トスカーナ州のプラートという町が複数の記事で注目されていました。
それに端を発して、イタリアのファッション、ひいては産業・経済は既に中国に支配されているとか、イタリアのファッションは終わりだとか、多くのコメントをみました。それ自体は一つの意見だと思います。かつて「【グッチ】Made in Italy、崩壊 イタリアブランドの実態」というタイトルの記事を、私も書きました。
なので、ひとまずそうした賛否は横に置いておいて、この記事では、なぜプラートに中国人移民が多いのか、となぜ中国人移民がMade In Italyを席捲しているのかについて、取り上げます。
ちなみに、プラートは、「中小企業が強いイタリア」において、その中でも特に経済的な成功を収めた例として、80年代以降常に注目を集めてきた町です。いわば、イタリアを代表する産業地区の成功例とも呼ぶべき存在のプラートと、中国人移民の関係について、迫っていきたいと思います。興味のある方向けの記事なので、かなり長いです。申し訳ありません。
移民労働者が変えたプラートの産業
プラートの産業
トスカーナ州北部に位置するプラート(図1)では、11世紀頃から、伝統的に羊毛を原材料として毛織物を生産する、繊維産業が盛んでした。
当時は高級毛織物の生産が一部の都市に制限されていたため、プラートは、主に中・低品質の繊維を生産してきました。このことからプラートは、ぼろ切れの都 (Il paese di stracci)と呼ばれ、またプラートの繊維工業従事者は、ぼろきれの回収業者(Cenciaioli)などと呼ばれてきました。
【18世紀】再生羊毛の開発で繊維生産を進める
その後18世紀には、ラーナ・リジェネラータ(Lana Rigenerata)と呼ばれる再生羊毛の開発が進められました。ラーナ・リジェネラータは、余り布や古着などを粉砕し、塩化水素系の特殊な酸によって加工処理して再生糸に戻することによって生成します。
この再生羊毛の生産量は、戦後の工業化の影響を受けて増加し、1970年代にピークを迎えます。プラートのこうした成功は、1984年に発表されたピオリとセーブルの共著『第二の産業分水嶺』にて、国内外に広く知られるようになります。
プラートの繊維産業は、約900年の歴史を誇っていますが、その過程で高品質繊維の生産に舵を切ることはなく、中・低品質にこだわり続けたことは非常に興味深いと言えます。むしろ彼らは、中・低品質の繊維生産技術こそが、自分たちが数世紀に渡って培ってきた伝統であると考え、さらなる技術開発・研究を進めていきました。その成果が、まさしくラーナ・リジェネラータの開発と1970年代以降の成功に表れたのです。
ちなみにプラートでも、他の産業地区と同様に、親戚や友人などを介した地域内の繋がりが非常に重視されており、中小企業同士の密な関係が築かれていました。
【1990年代】中国人移民の流入
しかし、1990年代前半のプラートは、市場の国際化や途上国との熾烈な価格競争の影響で、若干ながら伸び悩みを見せていました。イタリア経済全体で見れば「第二の経済奇跡」とも呼ばれる時代であったこの頃に、プラートは既に課題を抱えていたのです。
繊維生産から撤退したり、廃業したりした企業も少なくなかったといいます。そしてこの時期のプラートでは、中国人移民の流入という、全く新しい現象が起き始めました。1978年の中華人民共和国による「改革・開放政策」に伴い、中国人の国内外への人口移動が起き、イタリアに多くの中国人が流入してきたのです。
ちなみに、当時のイタリアへの移民労働者は、アルバニアやルーマニアなどの東欧出身者が非常に多く、彼らはイタリア内の工場や建設現場で働き、最終的には自国に戻ることを目的としていました。しかしイタリアに移民してきた中国人労働者は、衣料品産業やアパレル産業に従事した点と、移住先でコミュニティを形成した点で、で東欧出身者などからの移民と異なっていたとされます。
そしてプラートにも、トスカーナ州の別の地域から中国人移民がやってくるようになりました。そして、移民のほとんどは、浙江省温州市出身者でした。
【1990年代】中国人移民の業務内容
彼らは主に、プラートで非常に数の少なかった衣料品を生産する企業の、従業員または下請け・孫請けとして働き始めることになります。前述のように、イタリア人が経営する企業のほとんどは、再生羊毛を活用した繊維生産に工程を一本化しており、衣料品生産の分野に関心を示す経営者は極めて少なかったのです。
移民の仕事内容は、ミシンでのボタンや生地の縫い付け、完成した衣料品のアイロンがけなどでした。
なぜこの頃の移民が、プラートで主流だった再生羊毛の生産に携わらなかったかについては、彼らの語学力・技術力不足が原因であると考えられています。
90年代の中国人移民は、ほとんどイタリアを理解せず、また特殊な技能を身に着けてもいませんでした。そのため、やや複雑な工程を含む再生羊毛の生産に携わることは難しく、縫い付けやアイロンといった単純作業を選択せざるを得なかったのです。
さらに、経営者としても、工場での作業が必要な再生羊毛生産よりも、24時間いつでもどこでも作業をさせることができる単純作業の方が、移民に対して従事させやすかっと言われています。
【1990年代】中国人移民の業務環境
こうした背景から、90年代、プラートで衣料品を生産するイタリア人経営者は、長時間・低賃金労働を強いることができる中国人移民を重宝するようになりました。また、中国人移民は、大半が不法滞在者であったため、経営者からの違法な要求に絶えざるを得ませんでした。
さらに90年代のイタリアの給料水準は、中国の水準と比べて非常に高かったことから(図2)、中国人移民は劣悪な労働環境下でも我慢して働き続けていました。
そして、徐々に貯金が増え、生活が安定してくると、中国人移民は彼らの親戚や友人を同郷から呼びよせ、同様の労働に従事させます。このサイクルによって、プラートには中国人コミュニティが一気に形成されることになりました。
1994年には、既に中国人は2,000人、中国人経営者の持つ企業が300企業と、その数を急速に増やしました。具体的な方法についてですが、中国人移民は、主に前述した廃業した企業の工場を借り、その企業の作業場としました。彼らにとっては、工場を安く借りられ、元経営者にとっても、工場を貸して収入源とすることができたため、どちらにとってもメリットのある関係が成立していました。
【2000年代】繊維生産から衣料品生産へのシフト
このようにしてプラートに、歴史的にほとんど文化として根付いていなかった衣料品生産を行う企業が増加し始めました。研究者によれば、1998-2005年の間で、中国人移民は9,000人、中国人経営者の企業は1,200企業増加したといいます。これまでのプラートは、中・低品質の繊維産業に特化していましたが、中国人移民の活躍により、21世紀以降は中・低品質の衣料品産業という新たな強みを得ます。
この頃、流行が次々と変わり、それに合わせて人びとも安い衣料品を買いたいという、ファストファッションの時代が到来。そしてその潮流に乗るように、プラートの衣料品産業は、EUのアパレル企業の注目の的となりました。
こうした中国人移民が、グローバル化が進んだ国際市場における、プラートのフレキシビリティや低コスト、オリジナリティを実現しているのは事実であり、彼らもイタリア産製品の競争力を保つのに貢献している、と研究者は言います。
この時期、プラートの企業のみならずEUの企業も熾烈な価格競争に苛まれており、プラートの企業は、各国のアパレル企業と提携し、安価な衣料品を卸します。卸先としては、高級ブランドとして知られる企業も含まれていました。
例えば、イタリアを代表する高級ブランドとして知られるグッチやプラダは、2000年代以降、自らプラートに工場を開いて中国人移民を大量に雇用し、低コスト化を実現しています。こうした実態が2014年以降明らかになると、イタリア国内において、メイド・イン・イタリーのブランド価値の低下を嘆く声が多く聞かれ始めました。
図3が21世紀におけるプラートの産業の変遷を如実に表しています。前述の通り、プラートはもともと繊維生産が中心だったため、衣料品そのものの生産は少なかったのですが、21世紀に入るとその差は縮まり、2009年には逆転します。
【2000年代】中国人企業の増加
そして、図3でもう一つ注目していただきたいのは、衣料品企業数のうち、増加しているのはほとんど中国人が経営する企業によるものです。それは、単に中国人移民による下請け企業が増えたからではなく、2000年代前半からは、長年プラートで経験を積んだ中国人移民の中から、下請け企業を脱却し、実業家としての活動をする者が増え始めていきました。
彼らは、プラートのイタリア人コーディネーターが行うように、アパレルブランドとデザイン決定や価格交渉を行うと、下請けの中国人企業に製造を依頼し、低価格の製品を完成させていきます。これらの企業で働く従業員は、全員が温州市出身の中国人であり、コミュニティ内で密接な関係を築きつつ働きました。
この理由には、イタリア人が経営する企業と、中国人の下請け企業が、しばしば賃金未払いや長時間労働などを巡って問題を引き起こしていたことも関係しています。
つまり、中国人移民の手法は、イタリアに見られていた中小企業体制をそのまま移管したかのような機能を持っていたのです。
こうしてプラートの衣料品生産に関しては、その多くを中国人企業が担う産業構造になり、イタリア人が経営する企業の存在感は大きく低下することになりました。また、完成品を用意できる衣料品生産の企業に対して、生地しか卸すことのできない繊維生産の企業は、急速にその数を減らし、2012年には02年の半分程度まで企業数が低下しています(図3)。
さいごに
中国人移民とプラートの関係について書いてみました。参照にした文献は、各場所に散らばっているので、どの部分についてどの文献から参照したのか、確認されたい場合は、Twitter等でおっしゃっていただければと思います。2010年代のプラートの様子については、また別の記事で取り上げる予定です。
参照した文献
- 大木博巳「イタリアの伝統産地を変貌させる中国企業 プラートにおける地場の繊維産業の 衰退と中国人アパレル企業の興隆」(2015)
- Ceccangno, Antonella「In Ombre Cinesi?『Accordi di lavoro nella nicchia etnica cinese(77-89ページ)』」(2008)
- Dei Ottati, Gabi「In Prato: il ruolo economico della comunità cinese『Il ruolo dell’immigrazione cinese a Prato: Una rassegna della letteratura』」(2013)
- Il fatto quotidiano「Moda, la Cina è qui da noi: le griffe sfruttano il lavoro come a Prato」(2015)
- Ministro dello Sviluppo Economico「Analisi della contraffazione nella provincia di Prato」(2016)
- Pieraccini, Sandra「L’assedio cinese: il distretto parallelo del pronto moda di Prato.」(2008)