未だテロはないイタリア
ヨーロッパ各地で起き続けるテロ問題。ドイツ、フランス、ベルギー、スペインと、その流れは止まるところを知りません。
特にイタリア国内でも、先日のスペイン・バルセロナでのテロ以来、より、「テロがイタリアにもやってくる」という視点を強く意識しているような論調をしばしば報道機関で見かけます。
ですがその中で、なぜイタリアは、未だにテロが起きていないのでしょうか?様々な要因は考えられると思いますが、かといってテロの恐怖はすぐそばまで忍び寄っています。
なぜイタリアでテロが未だに起きていないのか、イタリアの大手メディアなどの論調を追いかけながら、なるべく私個人の主観ではなく、イタリア人達の中で語られていることを中心に取り上げさせていただきます。
なぜイタリアでは、まだテロが起きていないか
1.移民の受け入れの多さ
一般的にイタリア社会では、「移民を受け入れたことによってテロの可能性が高まる」という主張が圧倒的に強いのは事実であり、当然のこととも言えるでしょう。ですがその一方で、移民受け入れ率の非常に高い国(イタリア:50%、スペイン及びギリシア:48%)において、テロがほぼ起きていないということはまた、興味深い事実です。
ですがそれでも、今回のバルセロナの一件により、ヨーロッパで起きるテロはもはや移民だけによって引き起こされるものではない、ということを確信させてしまった例としても挙げられるのではないでしょうか。
2.移民2世が少ない
イタリアはこれまでにテロが起きてきたヨーロッパ他国に比べ、移民2世・3世が少ない傾向にあります。現在のテロにおいては、外からやってきた人々が直接的にテロを起こすというよりも、現状に不満を持った、ヨーロッパにルーツを持たないがそこに住んでいる人々(もちろん、持つ人もいますが)が中心となった行動です。
多くのテロリストたちがヨーロッパ各国の市民権を持っていたり、正規の移民であることを考えると、いわゆるこれまであったハッキリとしたヨーロッパという形が崩れ、アメーバ化していると考えることができるのではないでしょうか。
3.ムスリムの失業率が低い
イタリアというと失業や不況などの文脈で語られることが多いのですが、一方でムスリムの失業率というのは、ヨーロッパ各国の11%に比べて低く、約8%となっていることも、社会への不満度を下げていると考えられています、もちろん、移民労働者に対する賃金問題などはついてまわりますが、それでも少なくとも職はあるのです。
また、イタリアの国民性が逆に役に立っているという、面白い論調もありました。イタリア人たちが積極的に働かないからこそ、移民たちは多少苦しい思いをしながらでも働くことはできているのではないか、と。
4.通信傍受
またイギリスなどと異なり、イタリアでは各人の携帯電話の情報を必要とあれば傍受することもできるため、それなどもテロ対策として効果を発揮しているのではないかと言われています。
5.マフィアの影響
これは日本のウェブメディアなどでも多く取り上げられていることですが、イタリア、特に南イタリアにおけるマフィアの重要性というものも、テロのなさに多かれ少なかれ考えられています。自身の勢力圏を死守するマフィアの存在感というのは、なくはないようです。
この可能性は、様々なイタリアのテロ研究においても論じ始められているようで、どのような影響があるのかは非常に興味があるところです。
2つの誤解
一般的に抱かれがちな、「テロが起きない理由」において、あまり肯定的に受け入れられていなかったものも取り上げておきます。
ヴァチカンからあるから安心?
実際、ヴァチカン市国があるからイタリアは安全だ、などのように言われることは多いのですが、イスラム国側は「アッラーの意思に基づきローマを征服する」という旨の声明も2015年に発表しています。
イタリアはテロリスト侵入ルート?
また、中には、イタリアはヨーロッパにおける移民やテロリストを送り込む場所としては、最もやりやすいルートとされているので、仮にイタリアでテロが起き、イタリアが移民への扉を閉ざしてしまえば、ヨーロッパにおいて移民が入れなくなり、結果としてこれがIS側の損害にあたる、という意見もあります。
しかし一方で、以下のような事件も起きており、この説が正しいとされる可能性は低いでしょう。
- 2016年4月 ローマで攻撃要請を受けた4人のモロッコ人が逮捕された
- 同年12月 イタリア系モロッコ人がセスト・サン・ジョバンニの攻撃準備のために逮捕された
誰がテロリストなのか
テロの時代へ、ようこそ
再三にわたって語られている通り、現代のテロは、いつ・どこで・だれが起こしてもおかしくはない状況にあります。その意識は私たち日本人よりもヨーロッパの人々の方が何倍・何十倍と持っているはずです。
その例として、イタリアのメディア「LINK IESTA」より、ある特徴的なその例を引用させていただきます。
こんなシーンを思い浮かべてみてください。朝起きて、キッチンに足を踏み入れると、新しく買ったばかりのカフェマシン(と内臓センサー)が起動する。呼び鈴が鳴ったのは、カフェ・マキアートができあがった合図みたいだ。カフェを取ろうとマシンに近づくと、その目の前で、あなたの顔めがけてマシンが爆発する。
テロのファイナルステージへようこそ。
Il prossimo terrorista sarà la vostra caffettiera(http://www.linkiesta.it)より
(分かりやすいように意訳)
「コーヒーを飲む」というのんびりとした当たり前の朝の中に、「爆発」という最も分かりやすい形のテロが侵入してくる...。よりリアリティがあるからこそ、おぞましく感じられます。
主体はない
テロの主体は既に無くなってしまいました。例え移民であろうが、何であろうが、自分が行動を起こしたいと思えば、世界中どこでも仲間を募り、武器を揃え、何かを始めることができる時代です。
イタリアのメディアにおいても「なぜイタリアではテロが無いのか」を報じる一方で「なぜテロが無いなどと言い切れるのか」という表裏一体のような状態に直面しています。
テロに立ち向かう手段は、分からない
様々な研究が世界中で進められているものの、結局のところ、そんなものでテロの流れを止めることはできません。
社会からあぶれてしまったものの最後のもがき・輝きがテロのようなものに表象されるのだ、と私個人は考えています。全員が平等に受け入れられる社会など、あり得ないのです。これまで燻っていたあらゆる不平等や不満などを、爆発させ方法に、テロという手段があるということを知ってしまったのではないでしょうか。
これからのヨーロッパ、ひいては世界がどうなっていくのか、問題を止める術がないゆえに、不安を感じる以外できることがありません。
参考