ダンテ、ボッカッチョと並び、イタリア・ルネサンスの三大詩人と称されるペトラルカ。
ダンテの『神曲』の影響を受けて、ペトラルカも抒情詩『抒情詩集(カンツォニエーレ)』を執筆しました。
本作のテーマは、ダンテのように「死後の世界」や「神」というものではありません。
ペトラルカが密かに思いを寄せていた、一人の女性なのです。
今回はペトラルカの生い立ちから『抒情詩集』誕生のきっかけまでを、簡潔に解説していきます。
少年ペトラルカはローマ古典文学が大好きすぎて…
ペトラルカはトスカーナ地方(イタリア中部)のアレッツォで生まれました。
アレッツォはトスカーナ州の州都フィレンツェから南東に約60kmほど行ったところにあります。
ウフィツィ美術館の創設者ジョルジョ・ヴァザーリの生まれ故郷としても有名です。
またプラダ本社が居を構える街であり、イタリアで最も裕福な街の一つとされています。
ペトラルカはトスカーナ地方のインチーザで幼年期を過ごしたのち、ピサにも移住します。
そして8歳の時に、一家は教皇庁が移ったばかりの南フランスのアヴィニョンに移り住みました。
ラテン語の初等教育を修め、公証人だった父親の勧めでモンペリエやボローニャに留学し、法律を学びます。
その傍ら、ウェルギリウスやキケロなどのローマ古典文学に心酔しました。
そんなペトラルカには、ちょっと面白いエピソードがあります。
あまりにローマ古典文学が好きだった彼は、次第に法律の勉強が疎かになってきます。
それに頭を悩ませていた彼の父親は、ある日、物置に大量の古典を発見します。
ペトラルカは父親に見つからぬように、古典を隠しておいたのです。
彼はこっぴどく叱られて、目の前で古典を焼かれるだけではなく、二度と古典を読まないことを誓わされます。
この時の彼は、人生の全ての希望を失くしたような状態だったとかなんとか。
ペトラルカの古典好きを物語るエピソードですよね。
古代ローマ文明への見方を刷新したペトラルカ
1330年初頭、ペトラルカはローマ名門貴族出身の枢機卿ジョバンニ・コロンナに連れられて初めてローマを訪れます。
彼は遺跡の中を何時間もかけて歩き回り、貴重な時間を過ごしたのです。
彼の評価すべき点は、それらの遺跡群を単に「古代の驚異」としてではなく「歴史研究の対象」として観察したことです。
後にヴェローナでは古文書の山をあさって、キケロの書簡を大量に発見するに至りました。
キケロは、現在ではラテン語の散文を大成したローマ時代の政治家として有名です。
しかしペトラルカの時代には、庶民からの理解も薄いままの人物らしかったのです。
ペトラルカが例の書簡を発見したことにより、キケロの思想も古代ローマ人たちの日常生活から生じたものであることが広く知れ渡りました。
この結果、14世紀の人々も、キケロに対して親しみを持つようになったのです。
人生を変える女性、ラウラとの出会い
父の死後は、法律の勉強を放棄し、専ら古典の勉強に力を注ぐようになります。
1326年には留学を終えて、一家のいるアヴィニョンに戻ってきました。
翌年の4月6日、聖女クララ教会で、生涯忘れられない女性と出会います。
これがラウラという女性です。
とはいえペトラルカの言葉が、このラウラという女性の実在を示しているだけです。
後述しますが、実在した女性かどうかは疑わしく、ペトラルカが作り出した女性である可能性も囁かれています。
ペトラルカがラウラを見かけたときには、彼女は教会で祈りを捧げているところでした。
彼はその姿に雷に打たれたような衝撃を受けたのでしょう。
とはいえ、ラウラには既に旦那さんがおり、一方のペトラルカは当時聖職者の書記として働いていました。
つまり、心を奪われたラウラに対して、ペトラルカは何もできなかったのです。
それからちょうど一年後、ラウラは当時大流行していたペストによりこの世を去りました。
しかし、ペトラルカの心からラウラが忘れ去られることはありませんでした。
そしてこの経験こそが、ペトラルカの『抒情詩集』の執筆のきっかけとなるのです。
ラウラは実在した女性だったのか?
ペトラルカの人生を大きく変えたと言っても過言ではないラウラ。
彼女は本当に実在した人物だったのか、それともペトラルカが作り出した架空の女性だったのでしょうか?
その実在を証明する史料も特に残存していないため、架空の女性であったとする説も少なくありません。
それを補完する意見の一つとして、ラウラ(Laura)という名前が文学的な栄誉を象徴する月桂冠(Lauro)に似ていることが挙げられます。
つまり「ラウラへの想いは、詩人としての栄誉への熱望そのものであり、そういった女性が実在した訳ではなかったのではないか」ということです。
加えて、ペトラルカによれば、ラウラの命日(=1327年4月6日)は、彼女を初めて見かけた日付からジャスト1年後になっています。
これは偶然にしては出来過ぎているのではないかという意見もあり、彼女の存在を疑わしいものにしている一つの理由です。
『抒情詩集』はどんな作品なのか?
『抒情詩集(伊:Canzoniere)』には、主に前述したラウラへの愛と苦悩が歌われています。
ペトラルカはその美しさや純潔さを、余すことなく語っています。
とはいえ、必ずしも賛美に耽るだけではなく、彼女の存在が苦悩の種になったということも語られています。
作中には以下のような一節があります。
「わが悩みの ただひとつの因にして安らぎ」(『抒情詩集』365歌)
「死してなお在りし日のごと わが安らぎをうばいとる
美しいかの女も やはりわざわい。」(同書,366歌)
ペトラルカは北イタリアの都市ヴェネツィア、パドヴァ、ミラーノなどに移り住み、パドヴァから南西20kmの町アルクァで最期を迎えました。
終わりに
ダンテにもベアトリーチェという女性がいたように、ペトラルカにもラウラという人生を変えた女性がいました。
後世に大きな影響を与えた文学作品が、叶わなかった恋にきっかけを持っているというのもロマンチック?ですね。
もしラウラとペトラルカが死後の世界で会って話ができたなら、彼らはどんなことを話すのでしょう。
ペトラルカなら、敢えてその機会を放棄するのではないかと思うのが、筆者の個人的な予想です。
叶わなかった恋は、叶わぬままに。ペトラルカはきっと生前の思い出だけを大切にとっておきそうな気がするのです。